ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

18. 営業に転じてヨーロッパを走り回る

最初の1年、仕事はほとんど単純作業だった。まだ言葉もおぼつかず、何もできないのだから当然のことだ。少しずつステップアップしながら2年目も内勤を続けて、3年目に社長に「営業をやらせてください」と願い出た。

そのころには言葉もまあまあ使えるようになっていて、車の運転もできた。そろそろ新しい挑戦をしたいと思ってもいたし、商売の核になる営業の腕をつけ、自分を試してみたいという気持ちから志願した。仕事の内容は、スイスだけでなくイタリアやドイツ、ユーゴスラビアなどヨーロッパ中にある得意先まわりだ。

それからは、旅から旅の毎日だった。仕事はハードで、時にはユーゴスラビアからイタリアのセストリエーレというスキーリゾートまで、1000kmの道をワゴン車でひた走ったこともある。時間に間に合わせるために、標高2400mの険しい風雪激しい峠道を夜中の1時、2時に走って帰って来なければならなかったこともあった。途中でチェーンを外すために車の下にもぐりこんでいたら、雪が雨に変って背中の下を水がダーッと流れるといった経験もしている。おかげでずいぶんと肝が据わったと思う。

当時のユーゴスラビアは共産圏で、行くのにはビザが必要だった。異なる社会体制の国を見ることができたのは、今思えば貴重な経験だった。4つの民族、3つの宗教を擁していたユーゴはのちに分裂し、民族浄化の惨事を生んだボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を引き起こすが、この当時はカリスマ的な指導者だったヨシップ・ブロズ・チトーのもと、独自路線の社会主義国家として国をうまくまとめていた。全体主義的な秩序で治めてはいたが、資本主義に近い政策もとり、雰囲気はイタリアなどとさほど変わらなかったと思う。

驚いたのはイタリアだ。当時、首都ローマでは、12月31日が終わって新年に変わる時、一斉に窓から要らなくなったガラクタ類を投げ捨てるという慣例があった。それが彼らにとっての大掃除なのだ。鍋やかん程度ならともかく、上階から家具が降ってくることもあって危険きわまりなく、清掃に市では莫大な費用をかけていたらしい。怪我人だけでなく死者が出るに及んで禁止されたが、イタリアの他の都市ではまだその習慣が残っているところがあると聞く。

社会主義、自由主義の違いだけでなく、風土や歴史、国それぞれに住民の性向も、慣習や常識さえ異なっている。あちらの国ではYESだったものが、この国ではNO。国によって通用しないことが多々あるという現実を、身をもって学ばせてもらった。