ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

17. スポーツは国境を超える

スキーの本場、スイス。しかも住んだのはスキーリゾート、クロスタースだ。冬になれば当然スキーという話になるが、最初はみんな、日本人がスキーなんてやるわけない、と思い込んでいたようだ。最初の時はスキーに行くとは言わずに誘われて、

「実は今日はスキーをやるんだ。上に登るので一緒に行こう」

と、その場で言われた。こちらとしては願ったりかなったりだ。

「こういう風に降りてくればいいんだ」

先に手本を見せてくれたが、日本でガンガン滑っていた身からすれば、「なんだ、そうたいしたことないな」というレベルだった。「来い、やってみろ」というので滑って見せたら、「なんだお前、スキーできるんじゃないか」。極東から来た若僧を、少しは見直してもらえたのではないかと思う。

64年にオーストリアのインスブルックでオリンピックが開かれた時には、2週間、日本選手団の現地役員として招かれ、選手村に手伝いに行った。日本映画「アルプスの若大将」のスイスロケの際にも、ヘンスリー社がスキー板を扱っていた関係から、助監督が社長のところを訪ねてきて「日本人の手を貸してくれ」と頼まれてツェルマットへ赴いた。さまざまな人員や設備の手配など、朝から夕方まで助監督の代わりに映画制作に没頭したものだ。画面によくよく目をこらしてみれば、加山雄三と同じゲレンデを滑っている私の姿があるはずだ。

テニスに関しても、「けっこうやるじゃないか、おまえダボスの大会に出ろよ」と言われて、実際に出場もした。学生時代から通年山に親しみながら、冬はスキー、春から秋にかけてはテニスに打ち込んできたことが、ヨーロッパで生きてくるとは――スポーツは国境を超えるとつくづく思ったものだ。

それにしても、滞在した場所がクロスタースでよかったと今にして思う。前にも書いたとおり、チューリヒには50人ほど日本人がいたが、みんな日本人同士で集まっていたと聞く。島国根性なのか、日本人同士であれば言葉の苦労もなく、近くにいればついかたまりたくなってしまうものなのか。いずれにせよ、せっかくヨーロッパに来て他国の人と触れ合うチャンスなのに、もったいないことだ。

一方、こちらは孤独には苦しめられたが、スイス人の友もでき、スイス人の自宅に遊びにも行き、ずいぶんと人との縁をつないで見聞を広げることができた。それもきっかけは食とスポーツのおかげだったと、今でも感謝している。