ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

14. かつてない孤独のなかで

1962年当時、チューリヒには50人ぐらいの日本人がいたが、クロスタースにはもちろん私ひとりしかいなかった。日本への認識も、知っている人でせいぜい「フジヤマ・ゲイシャ」程度、裸でバナナを食べているんじゃないか……と思われかねない状況だった。極東のちっぽけな国。しかも敗戦国だ。のちにスイスで、戦争と人間を描いた大作映画「人間の條件」が上映された時には、大いに胸を張ったものだ。

初めての土地で日本語を喋れる相手もいない。都会ではないから気晴らしの場所もない。山をやっていたから精神的にはタフだったと思うし、4年間寮生活も経験していてホームシックはなかったが、それでも強烈な孤独感に苦しんだ。

ひとつには、言葉の問題も大きかったと思う。スイスの公用語は、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ロマンシュ語の4つ。国民の7割はドイツ語圏に住み、クロスタースもドイツ語圏にある。スイスで話されているフランス語やイタリア語は、多少なまりはあるがちゃんと通じるフランス語であり、イタリア語だ。ところが、スイスのドイツ語、つまりスイスジャーマンは、ドイツで話されている標準的なドイツ語とはまったくの別ものなのだ。

その差はドイツ人にも理解不能なほど大きく、発音も違えば単語自体が異なることも多いし、文法も違う。というよりも、そもそもスイスジャーマンは話し言葉で、整えられた文法自体がないのだ。加えて同じスイスジャーマンでも地域によって異なり、たとえばチューリッヒのスイスジャーマンがさほど離れていないベルンで通じなかったりする。

クロスタースのあるグラウビュンデン州はスイスのなかでも一番の田舎だ。文書は標準ドイツ語で書かれているが、あたりに飛び交う会話はグラウビュンデンなまりのスイスジャーマン。私は自由学園の最高学部ではドイツ語を専攻していたが、手も足も出ない。というよりも最初はまったくわけがわからなかった。居合わせたドイツ人に「彼らは何語を喋っているんだ」と聞かれて「ドイツ語です」と答え、「バカいえ、あれのどこがドイツ語なんだ」と言われて驚いたぐらいだ。文法のない話し言葉なので、スイスジャーマン入門などという語学書も学校ももちろんない。

社長の奥さんからは「あなた、絶対に不可能だから、スイスジャーマンを勉強しようなんてやめておきなさい」と言われた。彼女はアメリカ人でクロスタースに19年も暮らしていたが、それでも全然喋れなかった。もちろん会社には英語が通じる人はいるし、書き言葉は標準ドイツ語だから、みんな理解はできる。しかし、あまりにスイスジャーマンが特殊なために、英語はもちろん標準ドイツ語も彼らにとっては外国語なのだ。だから仕事の話はできても、「やあやあ」といった気のおけないお喋りなどはすべてスイスジャーマンとなり、楽しげな会話の輪に入ることができない。

日本語で気安く喋ることができないのはもちろん、誰も悪気はないにしろ、会社でも町なかでも常に疎外感を感じさせられたことがこたえた。「我、孤独を愛す」という言葉があるが、そんな言葉は本当に孤独を知らない人間だから言えることだ。そう感じるほど、意味ある孤独だった。孤独は人間を成長させる。