ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

10. 海外へのチャンスをつかむ

「誰か手伝ってくれる人はいないか」

どういう縁でそういう話になったのか今でははっきり覚えていないが、大学4年生の夏休みに、私は大阪の貿易関係の見本市でスイスの人が出したブースの手伝いを頼まれた。彼はスイスのヘンスリー社の社長で、電化製品やスポーツ用品などさまざまな商品を扱っていた。

期間は1カ月ほどだったと思う。仕事は日本人に商品を説明したり、事務局と折衝したりといったものだったが、自分の能力以上のことを要求される毎日だった。日本人には日本語で説明すればいいが、商品の情報は社長に聞いたり説明書を読まなければわからない。たいした語学力もないのに、もちろん全部英語だ。

若僧ながら一生懸命やっていたのが通じたのだろう、社長には「よく頑張ってくれた」と言ってもらえた。

「卒業後はどうするんだ」

そう聞かれたので、

「アメリカへ行って勉強しようかと思っています」

 と、その時抱いていた夢を語ると、

「何を専攻するつもりだ」

「経営学をやりたいと考えています」

すると社長にこう言われた。

「経営なんてものは、社会に出てビジネスを経験してからでないとわからないものだ」

 確かにアメリカでもみんな大学を出たらすぐ社会に出て、まず仕事をしてからビジネススクールに戻ってくる。そうでないと、MBAも取得することはできない。

この時に社長と話したことは、夢のまた夢くらいに思っていたところ、2カ月後に当の社長から手紙が来た。文面を見ると、なんと「よかったら、こちらへ来て働かないか」とあるではないか。

当時は、パスポートも自由にとることができず、普通の人は海外にも行けない時代だ。行けるのは国が特別に許可する人、官公庁の役人、企業の保証がある人。

今回のように海外の会社に呼ばれて働くのであれば、問題はまったくない。取得したパスポートの番号は、23万番台だった。ということは、戦後、十数年の間にたったそれだけの人数しか海外へ渡航していない勘定になる。私にとっては夢のような話で、友人たちからは「なんでお前が行けるんだよ」と言われた。確かにそうだと、重く受け止めた。