ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

9. 完全出席ならず――自由学園の日々

学校は初等部から大学に相当する最高学部まで、ずっと自由学園だった。母が自由学園の卒業生で、わざわざ学園のあるひばりが丘に引っ越して、子どもたちは全員自由学園で学んだ。

自由学園は、羽仁吉一・羽仁もと子夫妻が理想の教育を追求して、最初は目白に創設した学校だが、なにしろ当時の校舎はかのフランク・ロイド・ライトの設計で、今も「明日館」として残っている。昭和10年頃に移転したひばりが丘には、広大な緑の敷地の中に校舎が点在しており、生活即教育と称して掃除など学園の管理も子どもたちがやるという教育が行われていた。

羽仁夫妻のユニークな教育方針に基づき、男子部、女子部に分かれる中等部や高等部では一学年は30人が限度で、先生の目がすみずみまで行き届いていたと思う。学校で怒られたことも家に帰る前に伝わっているし、私がいたずらをすると連帯責任で兄も怒られたりした。

農場もあって「高校まではお百姓さんと同じことをやりなさい」と、春は種まきに、秋は刈り入れに行き、高校3年になると今度は林業。西武線で飯能から名栗にある校有林に行って、植林を手掛けるのだ。自然に触れたり、自然に学ぶ機会もふんだんにあった。

本物に触れるというのも方針なのだろう、たとえば吉田茂や高村光太郎などというその道を極めた人たちが来て講演をしたり、齋藤秀雄が小澤征爾さんを連れてきて何もわからない私たちに音楽の素晴らしさを教えてくれたり。最高学部になると勉強だけになるが、一橋大学による経済特別講座を授業に組み入れるなど、レベルは非常に高いものだった。数学の授業では、ソルボンヌの数学科を出た先生の「数学はアートです」という言葉を鮮明に覚えている。数学の世界では、フィールズ賞を受賞するようなトップレベル10人ほどの数学者にしか解けない公式があるそうだ。彼ら以外、誰に聞いても答えが出ない世界はまさに芸術、アートの領域だ。数学について、他はきれいさっぱり忘れてしまったが、この言葉だけ覚えていることに意義があるのだと思う。

一定期間以上、寮生活をすることも必須だった。私は中学1年から4年間寮に入っていて、毎日5時半起きの生活を続けた。

自由学園には「完全出席」というものがあった。1日も休まず、遅刻もせず、毎朝行われるランニングと体操を欠かさず続ける。初等部から最高学部まで16年間、これを達成すると「完全出席」として表彰され、完全出席者になれば大概の会社に無試験で入ることができた。

私も達成を目指して無遅刻無欠席を続けてきた。ところが、ある時、目覚ましをかけずに寝てしまったのだ。起きた時には始業15分前。家が近かったから必死に走ったが、間に合わなかった。

 16年間でただ1回、1分の遅刻だ。完全出席者はごくわずかだし、さすがに惜しいと思ってくださったのかもしれない。学園からは「田島は特別に許す」というお話があったが、「遅刻は遅刻だから」と辞退した。「ありがとうございます、でもそれはよくないと思います」と。そのはからいには、今も深い感謝の念を抱いている。

16年無遅刻無欠席はやはりすごいことだ。クラスには私以外に2名達成可能な友人がいたから、特別扱いされたのでは悪いという思いもあった。美学というのはそれほど簡単なことではないが、それが自分なりの美学の第一歩だったかもしれない。