フェニックス、再生機構入りの真実

52年前、私が32歳の時に社長になり、全身・全霊でつくり上げた株式会社フェニックスが、大きな曲がり角を迎えたのは2004年のこと。具体的には、当時の産業再生機構のスキームによる投資会社への経営譲渡プロセスだった。同機構による再生支援は、経済とりわけ金融システムの安定のため40以上の企業がその対象となった。
そもそもの起こりは、会社の業績が好調を続け、東証一部上場を目指していたさなかの1995年頃に始まる。

私は、業績悪化による銀行からの人材受入は、避けるべきと考えていた。当時、業績も好調だったので、会社の発展に寄与してもらう目的で、メイン金融機関(以下、「大手都市銀行」という。)から期間2~3年の出向の形で新たに人を迎え、特に管理面を見てもらっていた。そうした中、会社が20億円という空前の利益を計上したことから、大手都市銀行から迎えた初代社長室長からの、「このままでは株価が高過ぎて、田島さんが個人で会社を相続させるのはとうてい不可能ですよ」という強い提言もあって、会社として株式の公開を目指すことになった。東証一部上場に向けてリーダーシップを発揮できるスタッフを迎え、それにふさわしい経営の体制づくりをしなければならないと考えた。経営は、大手都市銀行から新たに派遣されたスタッフと自社生抜きメンバーによるグループに任せる事に決めた。
ただ、その際にひとつ強く要望したのは、経営上で銀行側と重要な齟齬や差異―たとえば資金繰りや経営上の問題が生じた場合は、必ず私に報告・相談をしてほしいとの条件を付けた。私自身は、商品開発とマーケティングの仕事に重点を置き活動することにした。

それから約5年余りが経過した。経営メンバーからは、全社をあげて東証一部上場に向かって順調に推移しているとの報告を受けていた。が、突然、大手都市銀行(2001年4月1日に銀行は合併し改組)の担当常務に呼び出され、「借入金の返済と黒字化」を要望された。
これが出来なければ、「今度新しく設立される産業再生機構に支援を求める方向で調整したい」との通告を受けた。大手都市銀行との交渉は、銀行からの出向者である当時の社長室長が仕切っていたので、この通告は、全く見当のつかない、予想していない事態であった。

その間確かに、95年の阪神淡路大震災とそれに伴う関西中京地区の販売チャンネルへの打撃に加え、97年の北海道の大手銀行の破綻によって同行が準主力行として保有していた50億円の債権が大手都市銀行に移転するなど、不安要素がなかったわけではない。
が、”ザ・ラストバンカー”と呼ばれた頭取からも「スポーツ業界は厳しい状態ですが、必ず乗り越えられるはずです」「田島さん、頑張ってください」とのお言葉もいただいていた。
実際、フェニックスは、震災翌年の96年には320億円というかつてない売上高を計上したが、スポーツ業界は、バブル崩壊の影響も受け、業績は悪化し利益体質も、徐々に弱体化していった。

そのような状況下、大手都市銀行からは「業績改善のため、新たな経営3カ年計画を出してほしい」との指示があり、経営計画の練り直しや資金手当て等さまざまな提案をしたものの、残念ながら産業再生機構入りの流れを変えることはできなかった。

私は「在庫の削減」・「資金繰りの改善」など財務面の改善や、売り易い物を売るという営業の行動を改善するよう全営業に指示したが、東証一部上場を目指す売上至上主義の流れを止めることは出来なかった。 また、商品の生産を継続していては在庫削減が出来ないと判断したので、20億円の商品の生産を止めるよう指示した。ところが、大手都市銀行出身の部長は「それでは計画書が最初から赤字となってしまいます」と異論を表明。そのうえで「20億円の生産は絶対にやめるわけにはいきません。各部長にその旨を伝えたところ、全員から『必ず売ります!』との賛同を得て涙が出る思いです」との報告を受けた。このように善意に基づき売上高目標達成を目指したが、結果として売上高は達成できず、資金繰りは悪化し、事態は再生機構入りへと進んでいった。

経営再建に関する銀行側との交渉はたびたびもたれたが、常に発言内容の正確を期すため2人ひと組でテーブルに着くのが銀行側の常識であった。しかしながら、大手都市銀行の窓口部長は、5分位たつと毎回、同席の一人を退席させ、常に私とその部長のふたりきりとなった。何か特別な話でもあるのかと思ったが、話の内容は一切特別な話ではなかった。
もう一つ大きな疑問を抱いたことは、大手都市銀行担当常務の前で説明する時には、スキー部門の企画部長、生産部長、営業部長のみが出席し、大手繊維会社出身の副社長、銀行出身の営業統括部長、銀行出向者で経営に携わるメンバー等は外されていた。社長室長も出席せず、そのメンバー選択は、社長室長の独自の判断か、銀行の判断なのかは未だに分からない。

この様な状況下、私としては、せめて一方通行の交渉にはしないでほしいとの気持ちから、大手都市銀行で2年前まで経営の中枢におられた方に事態を相談した。その方は、人事部長を通して早速その部長に会いに行った。「昔の彼は、あんなに暗くはなかった」との感想であった。そんなことからその方は銀行の人事部長に話をし、かの部長は、ほどなく関連会社への異動が決まった。(関連会社に異動したことは、わたくし自身知らなかった)

しかしながら、これ以降、事態は一気にこじれてしまい打開の糸口は完全に失われ、もはやデリケートな条件闘争は望めない局面に陥ってしまった。

切迫した状況への対処を第一に考えるという意味で、私は銀行側の提案を全面的に受け入れ、産業再生機構の管理下に入るという道を受諾した。人に迷惑をかけるべきではないという私の信念から、人生をかけてつくり上げた全財産を個人保証という責任を果たすために提供した。グッドラックもバッドラックも実力の内と思っていた私は、代表取締役としての責任を果たすべく苦渋の決断をした。

そんな経緯で決定した再生機構入りであったが、当時は金融不況、デフレ不況のまっただなかでもあり、肝心の支援先がなかなか決まらなかった。最終的には、私自身が知人の財界人を通じて投資会社にお頼みし、ようやく支援先が決定した。
その後、投資会社の担当者とは細部に亘って譲渡の話を進めてきたが、いざ譲渡書類一式を提示されたときは、それを読む時間や検討する時間も与えてもらえず、また弁護士に相談することも出来ない状況で、すぐサインをするよう要求された。出来なければ「交渉は中止です」との対応。この繰り返しであった。
この担当者はどういう思考を持ち、こうした不誠実な対応をするのか、全く理解できなかった。

譲渡のプロセスについてはもともと銀行からの出向者である社長室長を通じて、「譲渡にあたっては代表である田島さんがすべての条件に目を通し、そのうえでサインをしていただくかたちになります」と説明があった。にもかかわらず、その場になると投資会社の担当者は、「この条件で、すでに担当大臣には見せてありますので、サインをしてください」と言う。社長室長もそれに反対せず、最終的には投資会社の担当者と一緒にサインを迫るなど、社長室長も投資会社の担当者も言っている事と実際の行動が違っていた。このような行動を何故とったのか、また、大臣の名前を出してまで有無を言わせぬ合意を迫ってきたのか、全く理解が出来ない。

ホテルを買い取るに当たっては、私は、投資会社の担当者から、信用金庫には、元投資会社のグループにいた知人がいるので、融資に関しては心配しないでよいと言われていた。融資の一週間には、90%大丈夫だとの報告を受けていた。ところが融資の当日、信金の支店長から、突然融資の話はなかったことにして欲しいとの知らせがあった。信じられない事だったがこれも人生だと考えた。

自分の力で動かなければどうしようもないと判断し、大手地方銀行の門をたたいた。その時支店長からは、「産業再生機構の内容も調べました。複雑な案件ではありますが、融資することを決定しました」との報告を受けた。最後まで諦めない事が大事であるとその時は痛感した。3か月の間、平常心を保つために自分でも驚くほどのエネルギーを必要とした。
大手地方銀行から融資が決まったことを、投資会社の担当者に報告したが、融資額の2割を投資会社の関連会社に支払うことを譲渡の条件とすると、突然の要求をしてきた。
理不尽で全く理解できない事柄であった。

後で聞いた話だが、フェニックスの経営に携わっていた、投資会社の部長と担当者は、結局、60億円もの損失を出したと聞いた。やはり、ビジネスの世界でも、目先の利益のために理不尽な対応をするのではなく、できる限り健全な精神をもって、フェアな対応をすることが大切であるという事を学んだ。
大切なものを失い代償を払ったが、自分が創ったホテルの買取りは、次への新しい道を進むチャンスであると考えた。どんなビジネスでも基本的な人間関係を逸脱した無礼・失礼な行動は許される訳ではなく、無礼が多大な損失を産むということも教訓にすることができた。

今回の事態に際し、私が再生機構入りに強く反対することで、最悪の事態を招くことだけは避けたかった。自主再建がうまくいかず、すべての支援も得られないとなれば、貸倒れが発生する取引先や信用保証をしてくれた方たちに迷惑をかけ、そして何より懸命に勤めてくれた社員の働く道を閉ざすことになる。それだけはしたくはなかった。
創業以来、私は、「人に迷惑をかけてはいけない」「無礼をしてはならない」と社員に言ってきた。それにも拘わらず、言っている事とやっている事が違うと言われる事だけは、避けたかった。 産業再生機構の支援を受けるにあたり、フェニックスの代表取締役を退任した他、住まいだけを残し、10億円を超える全財産を保証にまわし責任を果たした。自分なりの信念に基づく行動だと認識しているが、今も答えの出ない人生を歩んでいる。
最終的には、ベストを尽くして取引先や社員への損害の波及を最小限にとどめることができた。

以上が20年近く前、フェニックスの産業再生機構入りにおいて、表面に現れなかった真実である。当時の企業経営者のほとんどは、北海道大手銀行の破綻を見るまでは銀行がつぶれることなど予想もしなかっただろう。これからの経営者には隠された問題点を見抜く力がますます求められるとの思いから、以上を書き残した次第である。同様の事態に再び見舞われる恐れのある日本の経営者や起業家の皆さんにとって”他山の石”となれば、幸いである。

この長い歴史の中で、全力でビジネスに取り組んできたが、グッドラックもバッドラックもすべて自分の実力の内、力が足りなかったと考えれば、次の道を必ず発見できることを学んだ。

株式会社ズイカインターナショナル
(ホテルグランフェニックス奥志賀)

代表取締役 田島 和彦