ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

40. 志賀高原とともに――観光と自然が調和する未来

奥志賀高原は、もともと長野電鉄が開発したリゾートで、ホテルは開発当初に建てられた奥志賀高原ホテルとグランフェニックスの2軒だけ。奥志賀高原ホテルやスキー場を経営する奥志賀高原リゾートが、小澤征爾氏監修の音楽堂も建て、冬のスキーシーズンはもちろんグリーンシーズンも上質な大人のリゾートとして知られている。

奥志賀高原リゾートは、長野電鉄の傘下を離れて証券会社の子会社が経営するところとなっていたが、08年のリーマンショックのあおりを受けて、危機に陥った。親会社が大損害を被ったことから、赤字のある子会社が解散の瀬戸際に立たされたのだ。そんなことになったら、リフトもゴンドラも動かなくなり、奥志賀高原の生命線が断たれてしまう。やむなく、09年に私と前出の杉山氏が奥志賀高原リゾートを引き受けることになった。

3年ほど経営したが、40年経ったリフトを維持・更新していくには巨額の資力が必要で、さすがに私の任ではなかった。私の仕事は、十分な資力を持つ新たなオーナーを探して手渡すことだ。そう見極めて上場企業5社、銀行5行、個人投資家10人ほどに打診したが、すべてNOという答えだった。無理もない、どこもスキー場の経営は大変で撤退が相次ぎ、東急でさえ白馬の八方や岩岳のスキー場を手放しているのだ。

幸いなことに、以前からスキーヤーとして面識のあった犬塚秀博氏に「お願いできますか」と聞いたところ、ご本人の夢が偶然にも「スキー場を経営すること」であり、「やりましょう」ということになった。資金も潤沢にもっている人で、託す相手としては申し分ない。これもまたラッキーな偶然で、未来へ向けてのいい道筋をつけることができた。

日本のスキーリゾートの歴史を拓いてきた志賀高原だが、これからは観光に関わる人たちが力を合わせていかないと未来は築いていけないだろう。個々の思惑ではなく、エリアとしてのビジョンのもとで取り組んでいくことが重要になる。自然のなかで営む観光業の未来を思う時、私がいつも考えるのはどうバランスをとっていくか、ということだ。

自然は人間にとってかけがえのない存在だが、人間がいること自体が、自然を損なうことでもある。よく、手つかずの自然とか、天然林などというが、人が入っている以上、手つかずも天然もありえない。そして人間が自然を損なう存在である以上、他方で自然を守るためにリカバーし、創成していくことが必要になる。

たとえばホテルではかなりの水を使う。環境を汚さないためには、すべて下水処理する必要があるが、そのためにはしっかりとした処理施設を整備するための費用を生み出す経営をしなければならない。CO2の問題は世界的なもので、根本は政治家に任せるしかないが、地域でも個々に努力していかないとダメだろう。そうしたことにも費用はかかり、その費用を生み出さなければリゾートを持続させることはできない。

人は自然を求め、自然に癒される。町や都会での生活が人工的なものに囲まれれば囲まれるほど、自然のなかで過ごすことが必要になる。私にとって最初に自然の素晴らしさを教えてくれたここ志賀高原で、これからも微力ながら力を尽くしていきたいと思っている。

振り返れば、私はこれまで多くの卓越した能力をおもちの方、そして心ある方たちとの出会いに恵まれ、さまざまに勉強をさせていただいた。自由学園の教員でのちに共同学舎を設立された宮嶋眞一郎先生、ビジネス人生の扉を開いてくださったヘンスリー社のヘンスリー社長、そして故・山中鏆さんと故・小菅丹治さん、柳井俊二元駐米大使、久米邦定元駐独大使、嶋津昭元総務事務次官、小林陽太郎ご夫妻、神戸製鋼の岡田さん、鉄鋼ビルディングの増岡隆一さん、長野電鉄の故・神津昭平さん、東京美装興業の元社長・八木祐四郎さん、昔からの親友である東レの石井宏さん等々、数え上げていけばきりはない。ホテルを作るにあたっては、八十二銀行山之内支店の高川支店長、多くの国から腕利きの職人を集め、自らヘルメットをかぶり、雨の日も風の日も雪の日も、彼らとの通訳をしてくださった吉岡芳子さん(イタリア語・英語)、黒岩弘江さん(ドイツ語)、須崎孝子さん(中国語)、齋藤和子さん(英語)、さらには輸入関連手続きを担当した渡辺加代子さんたちに大変お世話になった。これらの皆さんに、ここにあらためて御礼を申し上げようと思う。

最後に、これまで苦楽をともにしてきた社員の皆さん、取引先・得意先の多くの方々に心から感謝したい。そして、波乱万丈の人生において、いいときも悪いときも何ひとつ文句を言うことなく、ついて来てくれた妻に対し深い尊敬の念を抱くものである。