ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

35. ホテルグランフェニックス奥志賀を買い戻す

フェニックスから完全に手を引いた後、まず始めたのはホテルグランフェニックス奥志賀を買い戻すための資金調達だった。

グランフェニックスは、私たち家族に深い縁のある志賀高原に建てたもので、私にとっては思い入れがあるホテルだ。そもそもはスキー用品を扱う企業としてのCIの意味で建てたホテルだったが、その後も理想的なリゾートホテルをつくろうと心血を注いだ場所であり、なんとしても買い戻したいと動き始めたのだ。長期にわたる地元との縁もあって私にしか経営ができないことは明らかだったが、産業再生機構による再生後にフェニックスのスポンサーになったオリックスは、「資金が調達できたら、売りますよ」とは言っていたものの、自社でホテル経営をしたい意向もあり、どうやら「そんなことできるわけがない」と思っていたようだ。とにかく、資金の調達が先決問題だった。

オリックスの助言のもと、最初は地元長野の信用金庫に話をもっていったのだが、1カ月半もの時間をかけてようやく「田島さん、あと2日ぐらいではっきりします。90%大丈夫」と言われるまでにこぎつけた矢先、信金が融資している斑尾高原のスキー場が破綻して、ご破算になってしまった。次に話をもっていったのが、長野市に本店を置く八十二銀行だった。実はグランフェニックスの土地は長野電鉄からの借地で、買収資金の担保として差し出すことはできない。無担保で借金しようというのだから、時間がかかる。信金の時よりさらに倍近い日数を要した。

おかげさまで融資を決めてもらえたが、それは当時の高川支店長がホテルグランフェニックス奥志賀の経営理念を十分に理解してくださり、それを認めてくれたからだと感謝している。当時の町長をはじめ、地元スキー連盟、SAJ(全日本スキー連盟)とSIA(日本プロスキー教師協会)の会長など多くの皆さんが、支店長にグランフェニックスを応援するよう働きかけてくれたのも大きかった。

その時、私を理解してもらう上で役立ったのが一冊の本だった。『BASIC NOTE 志賀高原』と題したその本は、県内の編集プロデューサーが地域活性化のために編纂した、対談・インタビュー集だ。猪谷千春氏や私の父・田島一男、そして刊行当時にはまだフェニックス社長だった私、志賀高原「森の音楽堂」のこけら落としに第九を演奏した小沢征爾氏など40人の談話が収められていた。私たちと志賀高原との関わり、私自身のホテルと志賀高原に対する思いや観光産業に対する考え方が私の言葉として綴られていた。その内容が“信用”になったと、支店長は説明してくれた。

志賀高原のためになればと、求めに応じたインタビューだったが、本当に何が幸いするかわからない。ここでもまた、自分を理解し助けてくれる人と出会う、子ども時代からの運のよさに恵まれたようだった。