ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

27. マスターズブランドを作る

ゴルフの分野では、レナウンがアーノルド・パーマーと契約して、大々的にウェアの販売に乗り出してきた。なんとか対抗策をと考えて進めたのが、マスターズ・トーナメントを主催するオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブと提携してマスターズブランドを作ろうというプランだった。

オーガスタを運営している人たちととにかく会おう、まずはオーガスタというものを知ろうと、一番人が来るマスターズの開催期間中に2年連続で現地に足を運んだ。一応先方には「行きます」とは言ってあるが、アポイントをとっているわけではない。2年間会う望みはかなわなかったが、2年目に「次の年には会いましょう」という約束を取り付けることができた。3年目には会えたが、その頃にはうちだけでなく他社も名乗りを上げて、全部で10社ほどが提携を申し出ていた。そこでオーガスタ側が、どの会社が一番いいか見極めるために日本へ来る運びになった。

この時、私は他に所用があってロンドンにいた。オーガスタとコンタクトが取れる人物がサンフランシスコにいたので、彼を通していつ支配人が日本に来るのかを問い合わせた。調べて、同じ飛行機に乗り込もうと思ったのだ。

ロンドンにテレックスが入り、サンフランシスコからJALのどの便に乗るかがわかったので、急ぎロンドンからサンフランシスコへ。同じ便のチケットを買って待っていたが、なんと他の企業のエージェントをしている会社の人間もサンフランシスコに来ているではないか。挨拶を交わしながらさりげなくボーディングカードを見ると、オーガスタの支配人はファーストクラス、エージェントはエコノミークラス。私もエコノミークラスだった。すぐに日本航空のカウンターに行って、「ファーストクラスは空いているか」と聞くと「一席だけなら」という答え。すぐにチケットを変更した。

ファーストクラスと他の座席は行き来ができないので、空の上では邪魔されずにオーガスタ側と話ができる。支配人の日本でのスケジュールについて話を聞いて、極力うちの商品を説明できる時間を確保した。いいものを作っているから自信はあったが、じっくり見てもらう時間がなければ話にならない。何が起きるかわからないし、とにかく時間を多くしようと、支配人との打ち合わせを行った。

この時のことを、後になって人に話したとき、その人は「まさにサンフランシスコの空中戦ですね」と命名していたが、機転を利かせ、機先を制したことで、ことを有利に運ぶことができた。もちろんそれだけでなく、3年にわたって社長である私自身がオーガスタに通い、好印象を得ていたことも大きかったと思う。交渉の場だけでなく、はるかそれ以前から戦いは始まっているのだ。

支配人が帰国する時には、オーガスタ側の心は決まっていて、「フェニックスに決めた」と告げられた。翌年の78年マスターズには晴れて招待を受け、オーガスタの理事長とアイゼンハワーハウスで無事契約を終えた。出てきた時の燃えるような夕日は本当に素晴らしかった。その美しさと念願のかなった充実感――。今も記憶は鮮やかで、忘れることができない。

こうしてオーガスタと契約ができたことで、会社としてはもちろん、私個人にも思わぬ喜びが訪れた。なんと、大会の翌月曜日にマスターズ・トーナメントの最終日と同じポジションで、プレイすることが許されたのだ。世界一のコース、それも世界のトッププロが競い合うのと同じ条件でラウンドできる。ゴルファーにとって、まさしく夢のような経験だ。

その後、行けない年もあったが、幸いにも20回あまりプレイできたことは、本当に素晴らしい思い出となっている。とはいえ、そこはトッププロでさえ苦しむ世界で最も難しいコース。私には、年に一度の“嘆きのゴルフ”となったことは言うまでもない。

オーガスタには毎年訪れるうち、最終的に市長から名誉市民の称号を授与される栄誉にも浴した。ありがたいことと、感謝するばかりである。