ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

22. 縫製工場、フェニックスソーイングを設立

船出は必ずしも順調とは言えなかった。海外生産の道を探って、香港でスキーセーターを作ったが、取引のあった伊勢丹に納品しようとしたら、赤のセーターが検査で引っかかってしまったこともある。染色の堅牢度には1級から5級まで5段階あり、3級以上なら合格だが、赤のセーターだけ結果は2級。テストで色落ちしてしまったのだ。

商品の主力だったスキーウェアは、伸縮性のある布地で作るので、縫製には高い技術が要求される。自社生産のためには縫製工場の整備が急務だったが、技術をもった人材がいる場所でないときちんとした製品は作れない。そこで目をつけたのが、新潟県の新発田だった。東レでも日清紡でも、布地はすべて商社を通して入れている。伊藤忠の担当者から助言を得て候補に挙げた場所だったが、まずはその担当者と一緒に現地を見に訪れた。

新潟市の東に隣接する新発田市は、大倉財閥を興した大倉喜八郎の出身地でもある。その関係で新発田にはかつて大倉製糸の工場があり、縫製業が盛んで工場もたくさんあった。とはいえ、基本的には新発田は農村地帯で、あたりには一面に田んぼが広がっていた。この農地を工業用地へと転換して、工場を建てることができるのだという。

現地の人の案内で歩いたが、あぜ道から田んぼに足を踏み出して靴をダメにしたりして、本当にここでスキーウェアが作れるのだろうかと思ったものだ。 新発田では、幸いなことに木村さんという非常にまじめで優れた人に会うことができた。もともと10人ぐらいの規模で自分の工場をやっていてため、技術にも明るく工場の運営や人を動かすことにも長けた得難い人材で、この人ならば工場を任せられると安心した。(株)フェニックスソーイングを立ち上げるにあたって、その人を「一緒に工場を作りましょう」と口説いたのだ。

口説くのにテクニックは要らない。誠意をもって「お願いします」と言うだけだ。大切なのは「この人なら」という相手を見つけること。信頼するに足る人と判断できたことは非常にうれしかった。

工場ができ、木村さんを社長に(株)フェニックスソーイングとして稼働を始めたのが1971年。その後、木村さんの弟の忠さんを社長に、ミシンの機構や縫製技術、パターンなどの研究をする「商品研究室」も工場の近くに立ち上げた。問屋からメーカーに業態を変換する上で、とても大きな一歩だった。フェニックスソーイングは従業員40人からのスタートだったが、最盛期には160人を数える規模までになった。一方、商品研究所のほうは6人からスタートし、120人までに拡大した。