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《田島和彦自伝》

39. 母の生家・田島弥平旧宅のこと

私の母の生家は田島家といい、古く養蚕を生業とする家柄だった。

江戸時代後半の文政年間、佐位群島村(当時)に生まれた私の曾祖父・田島弥平は養蚕で財を成した父・弥兵衛の跡を継ぎ、明治時代に広く普及した養蚕技法「清涼育」を確立。著書『養蚕新論』を著すなど養蚕業や蚕種製造業に大きく貢献し、「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」と呼ばれ、その功により明治25年には緑綬褒章を受章している。

群馬県伊勢崎市に今も残る「田島弥平旧宅」には、私も子ども時代によく行き、蔵の中に収められた頼山陽や渋沢栄一の掛け軸など由緒あるものを見せられたが、歩いて10分の近さにある利根川で泳ぐほうが、当時の私には興味があった。

2013年、その「田島弥平旧宅」が、ユネスコの世界遺産に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の一部として登録されたのには、おおいに驚かされた。

「田島弥平旧宅」は、曾祖父・弥平が自らの理論に基づき、換気のための窓を屋根に据え付けるなど、「清涼育」に適した島村式蚕室の模範として改築を行ったもの。これによって、広く日本全国に知られるところとなった弥平のもとへは、その技術を学ぼうと多くの業者が訪れたほか、自らは宮中養蚕奉仕を拝命して宮中へ招かれるなど、明治初期における殖産興業の先頭に立つ存在だったと言って過言ではない。当時は、皇室が国民に範をしめす意味から、宮中での養蚕が行われており、祖父はそのための蚕種を献上するとともに、技術面での指導を行っていたのである。

私の母は、この田島弥平の次男の子として生まれ、生家はその後も代々の当主が「弥平」を名乗って存続しているが、このたびの世界遺産登録はまさに家を挙げての慶事であり、私もおおいに誇りに感じている。