ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

34. 産業再生機構の管理下に

打撃は、ボディブローのように徐々に効いてきた。

これに対し、私自身は「攻撃こそ最大の防御」という意識で経営にあたったが、それは社員のリストラをしないで済む道を作らなければならないと考えたからだ。しかしながら、そこには同時に経営者として最も大切なはずの変化への対応、ビジネスモデルの変革を進めていくという視点がなければならなかった。

そんななかメインバンクの住友銀行とは、業績が好調な頃から人材の交流を行うなど密接な関係を結んできたが、結果的に思わぬ行き違いが生じ、2004年には産業再生機構による再生を提案されることとなった。産業再生機構は2003年から07年の4年間だけ時限立法により存在し、多くの企業の再生を手掛けている。対象となるのは有用な経営資源をもちながら過大な債務により事業の継続が困難になっている企業だ。

支援を受ければ、メインバンクが一部債権を放棄した上で、事業は名乗りを上げたスポンサーに売却されることになる。非常に迷ったが、そうすることが結果的に従業員をはじめ、取引先など多くの方たちに迷惑をかけない道であると判断し、再生機構による再生を受け入れる決意を固めた。

支援は事業者とメインバンクが合意の上で要請することが前提だった。社長就任以来、35年をかけて育てた会社と社員を手放す決断は、まさに断腸の思いだった。社員に対しては自主的な退職を募ったが、指名解雇は一切せず、早期退職に対する退職金の上積みと再就職のための訓練企業との契約を社員ひとりあたり150万円で結んだ。

最終的に決断したのは、それが社員の幸せにつながり、人に迷惑をかけないで事業を生き残らせる一番の方法だと考えたからだ。むろん、自分が築いてきた財産も、差し出さなければならない。潔く財産を出さなければ、これまで言ってきたことも、生き方も嘘になる。「いい時には偉そうなことを言っていたけれど、所詮たいした人間ではなかった」と言われるようなことは、絶対にしたくなかった。

経営の最終決断をくだしたのは、ほかならぬ代表取締役社長の私である。優秀な社員と日本を代表する企業からの出向者たちに恵まれながら、成功の道を作れなかったことはひとえに自分の責任と言うほかない。