ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

32. 予兆

83年に100億円を突破した売り上げは順調に伸び、国際スキー連盟(FIS)のオフィシャルサプライヤーになった90年には200億円を超えた。この年、政府はそれまでの行き過ぎた不動産バブルを是正するために、土地取引の総量規制や公定歩合引き上げを行い、地価の下落が始まって、翌年から景気は後退の時期に入った。93年の10月まで続いたこの後退期がいわゆるバブル崩壊の時期とされるそうだが、その段階でもスキー関連商品の好調は依然として続き、フェニックス自体の売り上げも伸びていた。

93年頃には学生の就職状況が悪くなるなど社会的にも不況色が強まってきた年だが、上昇の一途をたどっていたフェニックスの売り上げは、この年に300億を突破した。94年には奥志賀にホテルグランフェニックス奥志賀をオープンし、上海に合弁会社を設立している。翌年には同じく上海にふたつめの合弁会社を設立。320億円という最大の売り上げを記録した96年には、アメリカ・サンフランシスコとカナダ・バンクーバーにも現地法人を設立した。

並行していくつもの新ブランドを発売し、98年にはテニスの聖地であるウインブルドンをはじめ、サッカーやスキーチームとも契約し、大会のスポンサーになった。社員40人の募集に1万人の応募があり、5000人が試験を受けにきたのはこの頃だったと思う。かつて新聞広告にたった3人しか応募がなかった昔を振り返って、感無量だった。

業績が非常によかったこの頃から、フェニックスではメインバンクの住友銀行や東レから人を受け入れていた。これは、フェニックスの一部上場を視野に、上場企業での経営経験をもつ人に来てもらおうという意図でのことだ。その住友銀行からも「今の利益と財務諸表を見ると、株価が過剰に高値となっており、資産の額が途轍もないものとなって相続が困難になります」との警告を受けるまでになっていた。

バブルが崩壊してからも伸び続けた業績。今となって思えば、実はこれこそが大きな問題だったのだ。水面下では徐々に変わりつつあった潮流に対して、タカをくくっていた面もあったかもしれない。就職難で若者たちの収入は減っていたが、スキーほどおもしろいスポーツであれば、人気は続くだろう……と。

ピークの前年、95年1月17日に起きた阪神大震災。それが、今思えば破綻への歩みの始まりだった。これに対し、私自身が経営者として十分に対応できなかったことが直接の問題だが、生活必需品以外の市場に与えたあの震災の影響は、それほどまでに大きかったのだ。