ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

30. 三大テナー放送のスポンサーに

Jリーグがスタートしたのと同じ90年、FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ・イタリア大会の前夜祭として企画された三大テノール競演は、今でも伝説のステージとなっている。その日本への放映の相談が、なぜかある日、私のもとへと持ち込まれてきた。

ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスがカラカラ浴場の遺跡でコンサートを開催する。この未曾有の企画は、白血病から奇跡的に快復したカレーラスが、白血病研究のために設立した財団への寄金を、目的のひとつとして構想されたものだった。ところが、日本への放映権を取得するはずだった会社が降りてしまったので、引き受け手を探しているのだという。降りた理由があきれたもので、カラカラ浴場には宣伝の看板を掲げられないからだそうだ。

このままにしては日本の名折れだが、大変なお金がかかる話でもあり、ふさわしい人に話をしようとソニーの盛田昭夫さんのもとを訪ねた。折よく冨士ゼロックス社長だった小林陽太郎さんが盛田さんに会いに来ていたので、かくかくしかじかと説明して話を託した。小林さんが部屋に入って20分ほども待っただろうか。出てくるなり「決まった」と言ったのでほっとしたが、続く言葉には驚いた。

「こういうことをやるべきだと考える人間がやらないと意味がないから、あなたがやりなさい」

「そんなことをしたら、会社がおかしくなってしまいますよ」

「その時は面倒を見るから」

ビッグネームの例のない競演だから、ゴールデンタイムの放映を条件に各局を巡ったが、どこも答えはNO。実はこの競演をきっかけに三大テナーは各地で競演を行って、クラシックファン以外にも飛躍的に知名度と人気を高めたのだが、この時点では一般の関心は高いとはいえなかった。最終的に、テレビ東京が10時半からやっていた「演歌の花道」の枠を、スポンサーにお願いして譲ってもらうことになった。この番組は一度も休んだことがなかったそうだから、かなりの英断だったと思う。

「星は光りぬ」「誰も寝てはならぬ」など名高い歌曲を三大テナーが遺跡で歌い上げる姿は圧巻で、この競演は伝説的なコンサートとして名を残すことになる。日本での放送はクラシックゆえに視聴率こそそれほどよくはなかったが評価は高く、番組はテレビ東京の社長賞を受賞、フェニックスが代表していただくことになった。

三大テナーはこれをきっかけに、4年ごとに開催されるワールドカップに合わせ、開催地でコンサートを開くようになる。それとは別にワールドツアーも実施することになり、96年の第1回の開催地が東京に決まった。協賛の話がフェニックスに持ち込まれたのは、前回の実績があったからだろうと思う。この時も、当初スポンサーを予定していた企業が事情があって降りることになり、その代役として登板することになったのだ。 「音楽とスポーツは国境を超える」

これはその時に作ったコマーシャルのメッセージだ。

実を言えば私自身、根っからのクラシックファンだ。この言葉はそのまま私自身の思いでもあった。