ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

26. 中国での生産を始める

代表取締役になってから10年ほどは、厳しい状況が続いた。特に最初の3年は本当に大変で、無我夢中の毎日だった。

フェニックスではすでに香港でスキーウェアを生産していたが、香港でも縫製に携わる人手が集まらなくなっていた。将来的には中国本国への進出を考えなればならないだろうと思って、まずは中国へ視察に行ったのが社長就任以前の71年前後のこと。

当時、中国と貿易をしている川西貿易という会社があった。香港のパイプを使ってもよかったが、川西の社長とはよく知った間柄だったので、一緒に行こうかということになった。日中の国交も正常化する前であり、香港まで飛行機で飛び、中国本土の深圳には汽車で向かわなければならなかった。文化大革命の余燼がようやく収まってきた頃で、戒厳令が敷かれ、夜は灯火管制が行われていた。背景には混乱によるエネルギー不足もあったのかもしれない。

青島に行った時には、外気はマイナス21度。列車の中ですらプラス9度しかなかった。シャツを2枚着ても3枚着ても寒いぐらいの状態で、列車に揺られて21時間。大変は大変だったが、昔のように商談をしに行って、いきなり相手に青竜刀で首を切られるなどという恐れはないのだから、マイナス21度に驚くこともないと思っていた。結局上海で商品を生産する話が進み、以後はたびたび上海へ渡ったが、70年代半ばには東京から上海まで直行便も飛ぶようになっていた。

中国は当時人件費も安かったし、生地などの素材も非常に安価だった。しかしやはり品質の問題があって、中国で素材から調達して製品を作ったが、うまくいかなかったという例をたくさん聞き及んでいた。そこで生地はフランスから持ってくることにした。

作ろうとしていたのはダウンのスキーウェアだ。ダウンに関しては中国にもよいものがあったので、綿毛状のダウンボールが80%、フェザー(羽根)20%で作らせて、しかるべき機関の認証を取って証明書つきで売ろう、という戦略を考えた。調べてみると、ダウンの認証機関はニューヨークにしかない。そこへ持ち込んで調べてもらったら、ダウンボール90、フェザー10のお墨付きを得ることができた。

品質にこだわり、認証をとった嘘のない商品として、満を持して発売したのは76年。日本のメーカーが発売したスキー用のダウンジャケットとしては最初のものだったが、なんとこの商品が伊勢丹の中央のウインドウに飾られたのだ。この頃はMade in Chinaのタグがついていたら陳列棚に戻してしまうお客様も多かった時代だ。その中国で生産した商品が、都内一流デパートのウインドウを飾ったのは、フェニックスのこの商品が初めてで、それは品質やファッション性の高さを伊勢丹が認めたということの証でもあった。

そしてこの商品は、スキーウェアとしてはもちろん、ファッションとしても絶大な人気を博し、爆発的なヒット商品となった。

中国とはその後もビジネスで深く関わり合い、何度となく行き来をしている。会社でビザが私ひとりにしか下りなかったので、初めの頃はひとりで足を運んでいた。社長兼社員兼見本生地の運び人といったところだ。76年に周恩来が亡くなった時には北京にいたし、毛沢東が亡くなった日にも上海に行っていた。

実は私自身、中国には深い思い入れがあった。戦後に初の女性議員(参議院)のひとりになった高良とみは私の叔母で、1952年に国際経済会議日本代表として北京を訪れ、第二次日中民間貿易協定を結んでいるのだ。そういう関係からたびたび「常に隣国の中国と仲良くしなさい」ということを言われていて、私自身も中国とのビジネスを発展させなければいけないと考えていた。そのため、当時まだ存命だった高良の叔母も、中国でビジネスを行っているのをおおいに喜んでくれた。