ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

15. 人と人をつなぐ“食”

クロスタースで住んでいた部屋は、キッチンは共同だったが、私はずっと自炊をしていた。幸い、山では自分で料理を作っていたから、料理自体は苦にならない。最初はドイツ語も覚えられて一石二鳥と考え、ドイツ語の料理本のレシピを見て料理を作った。もちろんここでいうドイツ語はスイスジャーマンではなく、標準ドイツ語の方だ。

作ったのはじゃがいもの料理とか、仔牛のクリーム煮みたいなものとか。なぜか入れる塩の分量を間違えたりして、しょっちゅう失敗していた。ドイツ語圏のスイスでは、もちろん料理はドイツ風のものが中心だ。はっきり言って、じゃがいもと肉ばかりで単調この上ない。野菜もあるが、みんなイタリアから入ってきたものばかりで高価だった。クロスタースは1500mの高地で、野菜の栽培には適さないからだ。

材料の問題もあって、当分の間は肉ばかりという食生活を続けていた。しかし暮らしにだんだん慣れてくると、チューリヒに行けば「イエモリ(Jemoli)」というスーパーマーケットでインターナショナルな材料が手に入ることもわかって、ふだん日本で食べていたような料理にチャレンジするようになった。一度、餃子を作ろうと思い立ったことがある。餃子の皮らしきものを売っていたのでそれを使ったのだが、これが実はパイ皮だった。挽肉とキャベツでつくった餡を包んで水餃子にしたら、バターが練りこんであるから皮が湯に溶け、ごった煮ができ上がってしまった。

が、何事も経験してみるのが私のモットー。ここで諦めずに強力粉を見つけてきて、皮から自分で作ってみた。実はこれはなかなかの大仕事で、40分ほども練らないといけない。最初は練りが足りなくて生地が割れてしまい、苦戦した。途中で頭に来て、壁にバンッとぶつけたら、気持ちはよかったが壁の埃を全部生地が拾ってしまう。短気は禁物、おかげで一からやり直しだ。練って、棒状に整えて切って、丸く伸して皮を作る。均等に切れてないから、でき上がった水餃子は大小、形はばらばらだったが、大味な肉を食べるよりもよほどおいしかったと記憶している。

川でマスを釣って、料理したこともある。あちらでは茹でてバターソースで食べるのがポピュラーだが、唐揚げにして玉ねぎと一緒に甘酢仕立てにした。食べていたら、ちょうど友達がやってきた。ひと口食べて「来週もこれを作れ」と言う。おいしさだけでなく、もの珍しさもあったのかもしれない。彼は自分だけでなく、友達もつれてきた。これがきっかけで、以後食を縁として、私のところに友達がどんどん集まるようになっていた。

イエモリの中華料理素材のコーナーで、たまたますき焼きの缶詰を見つけたこともあった。醤油や春雨も売っていたので、よし、これを使って作ってみようと、すき焼きにも挑戦した。チューリヒには「ビアンキーニ」という魚屋もあり、エビとイカを注文して、当時は宅急便などないので「悪いけど新聞紙に包んで、クロスタース行き直通列車の何号車の後ろに乗せておいて」と頼んだ。そして、その便は12時にクロスタースの駅到着なので、出かけて行ってピックアップした。そのようなことができるのが、スイスという国だった。これを天ぷらにして振る舞ったら、みんな「うまい、うまい」と大喜びだった。

食のおかげで友人の輪も広がり、2年目ぐらいからはそれほど孤独を感じることもなくなっていった。