ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

12. 寄港地の見聞から“世界”を考える

岡田さんと一緒だったおかげで、船の旅はいっそう快適なものになった。なにしろソルボンヌ大学に留学するわけだからフランス語にも堪能で、通訳付きのヨーロッパへの旅といった趣きだ。船は4日ぐらい航行すると港へ入る。自由に町を歩き回ることもできたし、バスツアーなども組み込まれていた。

船は香港、サイゴン、シンガポールの順に寄港した。当時南ベトナム(ベトナム共和国)は、ゴ・ディン・ジエムの政権下。反政府運動が強まりつつあり、ジョン・F・ケネディを大統領に戴くアメリカが、南北ベトナムの紛争への介入を強めている時期だ。船がサイゴンに寄港した前日にも爆破事件があって、町には戒厳令が敷かれていた。

町に出たものの、兵士に「タクシーに乗って帰れ」と言われたが、1台のタクシーも走っていない。30分歩いて帰ったが、幸い特に変ったこともなかった。

サイゴンからは、横浜へ見送りに来てくれた人へ礼状を出すつもりでいた。切手を持っていなかったので、ホテルのフロントになら常備しているだろうと、まともそうなホテルに立ち寄った。「切手を売ってくれ」と言うと、「切手はないが、切手代を置いていけば出してやる」と言う。「これだけの切手代が必要だ」との言い値を置いて、礼状を託したのだが……。

後日ヨーロッパに着いたら、父から「礼状の一通も出さない、家に手紙もよこさない、そういう息子に育てた覚えはない!」と怒りの手紙が届いていた。岡田さんもやはり同様だったという。そこで、見ごとにしてやられたと気がついた。

シンガポールでは、まったく逆の経験もしている。ボタニカルガーデンを見に行った時のこと、バスで運賃を払う時にパスポートを落とすという大ドジをしでかしてしまった。すぐ気がついて、あのバスに間違いないとバス会社に連絡を入れた。すると終点のバス停で預かっていることがわかり、次のバスで送るからそのまま待っていろと言われた。シンガポールの人の親切には、今も感謝している。

一方、インドのボンベイ、今のムンバイでは町に出ると、わあっと周りから手が差し出されて「マネー、マネー、マネー」。夜のツアーでは、檻の中に閉じ込められた娼婦も見た。当時のムンバイは衛生的な面も含め、貧困の極みがここに現れているという世界。イギリスの植民地政策のひとつの結果でもあり、そんな状況の中でもすさまじいエネルギーで生きようとする人たちがいる。まだ20歳を過ぎたばかりの私には衝撃的な経験だった。

もっとも印象深かったのは、スエズからカイロへのツアーでの経験だ。

途上、泊まったオアシスに小さな村があり、ロバに乗った親子が帰ってくる姿を見かけた。

目を奪われたのは、夕日に照らされた素晴らしい親子の笑顔だ。

彼らが入っていったのは、日干し煉瓦と土の小さな家。日差しを遮断するためか小さな窓しかなく、その窓の向こうの闇に蝋燭の火が揺れているのが見えた。電気も来ていない貧しい暮らしにも、笑いと微笑みをもった親子があった。その微笑みを見て、こんな幸せはないんじゃないかというほどの喜びを感じ――人間の幸せとは何なのだろう? そんな思いに胸を揺さぶられた。

町では子どもたちがラベンダーの花を持ってくる。それがまた素晴らしい香りなのだ。しかし売りに来る子どもたちの生活は、貧しく厳しい。その一方で、古代の王たちが作り上げたスフィンクスやピラミッドの、なんというスケールの大きさだろう。ピラミッドに登ると、やっと視界が届くほどの遠方に山が見えるが、ピラミッドの石はそこから運んだものだという。紀元前何千年もの昔に、家ほどの大きさもある石をどうやって運んだのだろう。

そしてそれほどの富と力、文化をもった王国はどこへ消えてしまったのか、そして何千年もの時が流れたとはいえ、同じ地でのこの貧しさは何なのだろうか。

立ち寄ったアジアや中東の地でさまざまなシーンに出会い、若い感情を揺さぶられ、思いを巡らせた。いちばん多感な年齢の時に、こうした経験ができたことは本当に幸運だったと思う。このとき、多彩な国を巡ってそれぞれの文化を比較できたのは、その後の自分にとってとてつもなく大切な経験になった。ある国では正しいことが、ある国ではダメとなる。正しいものとは何か、そもそも正しいものがあるのか。比較文化の視点をもつことは、生きるために重要な能力のひとつだと信じている。

以後、スイスでの生活が始まってからも、私は同様の経験を重ね、さまざまな疑問を問い続けることになる。