ホテルグランフェニックス奥志賀ができるまで
《田島和彦自伝》

11. 1カ月の船旅でヨーロッパへ

スイスで働かないかという社長からの話は、願ってもないものだった。ともかくもヘンスリー社にお世話になることに決めて準備を始めた。

当時の飛行機便は、羽田―欧州南回り30時間が24万円、飛行機代と30日間かかる横浜-マルセイユのファーストクラスの船旅25万円がほぼ同じなのだ。船便の方はきちんとした客室をとって、食事が3食ついた値段で、だ。

3月の末に卒業して、仕事が始まるのは9月から。30日かかろうが問題はない。行く道々あちこちに寄港するから、見聞を広げることもできる。乗ることに決めたのは、フランス郵船のラオス号である。

1962年8月25日、横浜の大桟橋から乗り込んだが、客船には前年の大阪国際見本市で見知っていた岡田健さんの懐かしい顔があった。彼からは、私が見本市でスイスの会社のブースにいるとき「来年、ヨーロッパに行くのですが……」と、いくつかの質問を受けていたのだ。聞けば、神戸製鋼の社員でソルボンヌ大学に留学が決まっているという。おまけに、出発前夜に電話があって―― 「私もフランスに行くことになったんですよ」

こうして、国際見本市で出会った人と、偶然同じ客船の隣室でヨーロッパへ30日間の船旅をすることになった。

出航したのは台風シーズン。横浜を出航したと思ったら、いきなり台風に遭遇だ。ものすごい揺れで、みんなベッドにもぐりこんだが、ぐわーんと持ち上げられてドーンと落ちると、寝ている背中とベッドの間に隙間ができるほどだった。台風を抜けるには一晩かかったが、その間3食をきちんと食べたのは、私と岡田さん、もう1人のフランス人の3人だけだった。